【母子のように】
お念仏は阿弥陀様が私たちにご一緒下さる相(すがた)です。親鸞聖人は「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」と、阿弥陀様は、まるで母親が我が子をしっかり胸に抱いて離さないように、お念仏となって「見ているよ 知っているよ」といつでもどこでも誰にでも常にご一緒下さることを教えて下さいました。
【新聞の歌壇】
年暮の新聞にこんな歌を見つけました。
「日傘忘れ戻りし病室 父ひとり嗚咽するを見る まだ夏だった」
父親の見舞いに行き、しばしの会話をします。いつもと変わらずに見えて「元気そうでよかった。じゃあ、また来るからね」そう言うと「おう、またな」と力強い返事。安心して病室を後にしてから気づきます。「しまった、日傘忘れた…」そして、病室に取りに戻った時のことでした。なんと元気そうに見えた父が、病室のベッドの上でたった独り、声をつまらせて泣いているではありませんか。涙を見せたことのないあの父が…あれはまだ暑い夏の日のことでありました-
【揺れる心のただ中に】
私たちの心は状況によってコロコロと変わります。健康で元気で人生がうまく運んでいる時とは全く違います。その思いは時に誰にも語れず、たとえ家族や友人であっても心の内を全て知ってもらうことも、ずっと側に居てもらうこともかないません。
しかし、そのどうしようもない揺れ動く孤独の心の真只中にこそ、阿弥陀様は涙して「見ているよ、知っているよ、そのままのあなたが目当てですよ」と、いつでも(今)どこでも(ここ)誰にでも(私)ずっとご一緒下さるのでした。それを私たちは一声一声のお念仏に知らされるのです。
<鹿児島別院『こころの電話』・ホームページ掲載 2020年5月>