浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

浄土真宗のみ教え

「悲しみの仏事」

皆さんの多くが身内の方、愛する方々を見送られた経験をお持ちだと思います。それだけに、今回は世間一般に言われていることとの違いに驚かれ、あの先立った者へせめて何かをしてやりたいという、止むに止まれぬ思いまで否定されたように感じられた方もおられるかもしれません。

 

そこで、まずお伝えしたいことは、阿弥陀さまは「凡情を遮せず」と私達のいろいろな心情を正しく整えてから来い、断ち切ってから来いという仏様ではなかったということです。その逆で、悲しみや孤独に押しつぶされそうな私達一人ひとりの涙こそが私の住所でありました、私のはたらく現場でありました、と先手、先手に阿弥陀様の方から寄り添い懐きとって下さることをお聞かせ頂く…それが浄土真宗のお聴聞でした。

 

ところが、私達はそのことを聞かずしては、孤独に涙します。先立った者を毎晩のように「どこへ行ったのか」と探します。どこか暗い所で迷っているのではないか…。泣いているのではないか…。だから、せめて何かせずにはおれないのだ…と。家族を持ち、社会に生きる在家の私達。そして、生まれたら必ずこの命終わっていくしかない私達は、今ここでこの命の往き先とその後のはたらきを聞かずして本当は安心できなかったのですね。
親鸞さまはご和讃に「南無阿弥陀仏の廻向の 恩徳広大不思議にて 往相廻向の利益には 還相廻向に廻入せり」と、この命は死んで終わっていく命じゃないんだよ。今ここで阿弥陀さまに懐かれながら、光輝くお浄土に生まれて往く命なんだよ。そして、仏様と成ったらそこでじっと留まることなく、すぐさまこの世界に還って来て、残してきたすべての者の中に「南無阿弥陀仏」と入り満ちてはたらき続ける命になるんだよ。と阿弥陀様のお徳を慶ばれました。そこには、たとえば親子二人、この無常の世界にあっていつどこでどちらが先にこの命尽きようとも、お互いがお互いの命の往き先とその後のはたらきの現場までもが同時に知らされてあったのですね。
私達はもうすでにそのことをお聞かせ頂きました。もう先立った者をどこかに探すことはなかったのですね。もうどんな毎日、どんな夜であっても決して独りではありませんでしたね。いつでもどこでも「なまんだぶつ、なまんだぶつ」とお念仏するところにあの懐かしい方々はごいっしょでした。そして、その大きな安心こそ、先立った者が阿弥陀さまと同じお悟りの仏様と成られた「願い」そのものでありました。

「西方弥陀の浄土より 至心の鳥が飛んできて 私のむねに巣をつくり 南無阿弥陀仏と鳴きまする」(詠人知らず)

 

<第15期大海組連続研修会「悲しみの仏事」まとめの法話『連研だより』掲載 2008年11月掲載>

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派