浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

浄土真宗のみ教え

「慶びの仏事」

サッカーのワールドカップが始まりました。テレビで得点シーンなどがよく映ります。その時、ゴールを喜ぶ外国の選手に多く見られるのが自分を生かしめるグランド(大地)にキスをし、天を指差し神に感謝する姿です。

 

それを見て、私は何か物事が成し遂げられた喜びを仏様に感謝しているか考えさせられました。もちろん仏様に参るから物事が成功するのではありません。しかし、人間に生まれ、今生きているからこその喜びもでもあるのですね。自身の問題としてそのことが全く当たり前になっていたのではと感じたのです。だから私はお寺での儀礼や仏様に手を合わせるのはこんな時(例えば死に事)といった概念や形式に囚われ、それで「当たり前」と仏様のハタラキを自分勝手に縮小化していたのではないか・・・。また、あなたを必ず救う。必ずお浄土に生まれさせる。そんな仏様のハタラキが全くちんぷんかんぷんであったのでしょう。

 

ただ、それらは仏教に出遇えたからこそ感じたことでもありました。以前の私なら神に感謝するスポーツ選手を見て「私ならどうしただろう?」と思うことは決してなかったと思います。また「仏さまって何?」「お浄土って何?」もっと言えば「ちんぷんかんぷん」と感じることさえまずありませんでした。

それは日常の様々な出来事でも同じで、スポーツや仕事ができること。人間としてこの親に生まれ、この子どもに恵まれたこと。多くのいのちを頂いて生きていること・・・。そんな普段当たり前のことを「有ること難し」と気づかされる。実はその気づきこそ仏様のハタラキの真っ只中にあるということなのでした。

 

そして、その事に最も直面させられるのが様々な仏事なのです。「慶びの仏事」として言えば、人生の節目や日常の些細な慶びの度に仏様に出遇い、当たり前の不思議に気づかされる大切な機会となるのです。
ただ、これから皆さんが「慶びの仏事」を催される中では様々な疑問や不安もあることでしょう。また、仏教を慶べていないのに?という思いもあるでしょう。しかし、そんな私達の思いのずっと前から先に先にこの人生(いのち)を慶んでくださっているのが阿弥陀という仏様です。そして、いつでもどこでも片時も離れずご一緒くださっているとお聞かせ頂いています。それは人生のどんな時でも、あらゆる機会と場所で私達は仏様と出遇い、仏様とご相談しながら生きていけるということではないでしょうか。
<第13期大海組連続研修会「慶びの仏事」まとめの法話 『連研だより』2006年6月掲載>

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派