浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

浄土真宗のみ教え

「浄土真宗の食事の言葉」~なぜ生きるのか~

【浄土真宗の食事のことば】

〔食前のことば〕(合掌)
●多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。

〔食後のことば〕(合掌)
●尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。
○おかげで、ごちそうさまでした。

 

【御讃題】

「諸有の人民・蜎飛蠕動の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつるもの、慈心歓喜せざるものなけん」(『教行信証』真仏土文類 大阿弥陀経引文 註釈版聖典P341)

 

【小さな虫にまで】

阿弥陀様はあらゆる命を、命の奪い合いがないお浄土へ仏様として生まれさせたいという願いを完成されました。ですから、阿弥陀様は私たち人間だけでなく、あらゆる動植物や名もなき小さな虫にまで至り届いておられます。それを親鸞聖人は、「諸有の人民・蜎飛蠕動の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつるもの、慈心歓喜せざるものなけん」というお経のご文をもって、私たちが共に生まれ往くお浄土のすがたをお示しになられました。

そうすると、私たちが毎日食べている肉や魚や野菜や米は、阿弥陀様がお浄土に生まれさせ仏様にしたいと願われ続けた命だったのです。では、同じく阿弥陀様から願われた命を奪い、それを食べてまで私たちはなぜ生きるのでしょうか。

 

【なぜ生きるのか】

ある時、「なぜ生きるのか」を子ども会で聞くと「遊ぶため」「学校へ行くため」「夢を叶えるため」と素直な答えが返ってきました。また、ある老人会で尋ねると「働くため」「家族を守るため」「子孫を残すため」といった率直な意見が出されました。しかし、考えてみるとそれらは他の命を奪って生きる正当な理由にはならないはずです。どれも奪われる命からすれば私たちの勝手な理由に過ぎません。また、必ず訪れる「死」の前では、それらの理由は全て行き詰ります。

では、私たちが生きる本当の理由とは何でしょか。それは、阿弥陀様の願いが私の命にも届いていることを聞いて、死んだらお終いではなく、必ず仏様に成らせて頂く身と成ることなのです。もちろん、それも他の命を奪う正当な理由には決してなりません。しかし、阿弥陀様から同じく願われた命を奪って生きる私が仏様に成らせて頂いて、今度はそれら全ての命をお浄土に生まれさせ仏様とすることこそが、他の命を奪って生きる者に遺された道であるはずです。

なぜなら、浄土真宗は仏教だからです。それは、仏様の教えであり、仏様に成らせて頂くみ教えです。その私たちが申し上げる「食事の言葉」は他の命を奪う勝手な言い訳ではありません。罪滅ぼしのためでもないはずです。それは、奪った命への懺悔と深謝を述べる言葉であり、それを私のところまでご用意くださった皆様に対する感謝の思いです。そして何よりも「生きる意味」を自らに問う言葉なのです。

そうして、阿弥陀様に願われた「多くの命と皆さまのおかげにより」この命が許され、仏法聴聞のなかで生きる意味(=食べる意味)に出遇えたとき、本当に深く御恩がよろこべる報謝の生活がはじまるのです。

称名

 

 

<大分教区『食事の言葉』法話冊子 青年布教使の会代表として>

 

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派