浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

浄土真宗のみ教え

「白蓮華のごとく」 ~仏さまのお誉めのなかに~

【凡夫(悪人)が最たる目当て】

浄土真宗は、凡夫が最たる目当ての宗教です。阿弥陀様は、煩悩によって迷いの世界に沈み、お浄土に生まれて仏様に成るなど許されなかった凡夫の為に、必ず生まれ往くことができるお浄土を建て、「まかせよ必ず救う」とご一緒下さいます。

【泥中の華】

親鸞聖人は、その阿弥陀様のご本願のお心を聞き受け念仏する凡夫を、お釈迦様をはじめ全ての仏様が「あなたは白蓮華(分陀利華)のような方であります」と幾重にも取り囲んでお誉め下さることを慶ばれました。白蓮華は蓮の中でも最も尊ばれます。では、煩悩具足の凡夫がなぜ「白蓮華」とまで誉められるのでしょうか。

親鸞聖人は、蓮のおいわれを「高原の陸地には蓮を生ぜず。卑湿の淤泥に蓮華を生ずと。これは凡夫、煩悩の泥のうちにありて、仏の正覚の華を生ずるに喩ふるなり」とお示し下さいました。蓮は清らかで美しく泥には染まりませんが、常に泥の中に根を張ります。それを、阿弥陀様が高原の様な清く美しい所ではなく、泥沼の様な真っ暗で汚れた場所にこそはじめから入り満ちて下さることに喩えられたのでした。そうすると、全ての仏様は、仏の中でも最高のお徳を具えた阿弥陀様をついに煩悩具足の命に宿し、間違いなくお浄土に生まれて仏様と成る身となったことを「白蓮華」とお誉め下さったのでした。

【刑務所の中の中学校】

さて、長野県松本市に世界でも例がない、刑務所の中に建てられた旭町中学校桐分校という公立中学校があります。全国の刑務所から、貧困や両親の不在など様々な理由で義務教育を修了できなかった受刑者が入学し、中学校卒業の資格を取られます。昭和30年に創立され、昨年度までに10代~80代までの754人が卒業されました。

この中学校の入学式では、新入生が多くの来賓と全受刑者の中を音楽と共に入場し、続いて祝辞や祝電が次々と読まれます。新入生はそれを感動のあまり涙を流しながら聞くというのです。そして口々に「入学式は初めてです。生まれてこんなに沢山の人から祝福を受けるのは初めてです」「こんなことは後にも先にもありません。式中、身体が震えて涙が出ました。悪いことを多くしてきた私は、ほめられたことにすごく照れました」などと言われます。そして、この中学校の先生は「日本一の入学式」と表現し、「彼らの母校である旭町中学校は刑務所を出て社会で生きていくうえで、何よりもの心の拠り所となっています」と胸を張られるのです。

しかし、新入生は中学生であると同時に受刑者です。自他ともに多くを傷つけてきたのです。では、多くの方から何をこれほどまでに祝福され、誉められるのでしょうか。それは、決して罪を誉めたのではありません。幼い頃から両親の愛情を知らず、家庭や学校という居場所に恵まれてこなかった命に、この度生まれて初めて「心の拠り所」となる「母校」が出来たことを祝福し、誉めて下さってあるのでした。

【真実の拠り所】

今、お釈迦様をはじめ全ての仏様は阿弥陀様のご本願のお心を聞き受け念仏する凡夫を「白蓮華」と誉めて下さいます。それは、決して煩悩や罪を誉めたのではありません。阿弥陀様のご本願が成就するまで、永遠の過去よりどの仏様のお救いにも私の居場所はありませんでした。どの仏様のお浄土にも私は生まれては往けませんでした。煩悩を抱え、自他ともに傷つけては出会いと別れを繰り返してきたのです。

その孤独の命の真只中に、この度初めて私を決して捨てない阿弥陀様と、そして必ず生れ往くことができるお浄土という「真実の拠所」が出来たことを誉めてくださったのです。それは、他の誰かと比べて誉められたのではありません。真っ暗な孤独の命であり続けた過去の私に対して、「この度は良かったですね」と誉めて下さるのでした。

【凡夫に変わりなけれども】

そうすると、この先の人生も重たい泥の様な苦しみや悲しみは尽きず、煩悩具足の凡夫に何一つ変わりありませんが、もうただの凡夫ではありません。阿弥陀様が常にご一緒くださり、必ず生まれ往けるお浄土があることを聞き受けた凡夫です。そして、全ての仏様のお誉めとよろこびのうちにある命です。

ここに暗くて孤独であった凡夫の毎日が、光に満ちた賑やかな仏道となって転ぜられてゆくのでした。

 

 

<本願寺出版社『季刊せいてん』№124/秋の号「法話随想」掲載>

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派