浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

浄土真宗のみ教え

「証拠」~嘉風の花火~

【仏名を聞く】

浄土真宗は、名号「南無阿弥陀仏」のおいわれを聴聞する「聞名の宗教」です。親鸞聖人は名号のおいわれを聞いて疑い無き心が信心ですと教えて下さいました。

その名号のおいわれを蓮如上人は「阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき“衆生仏に成らずは我も正覚成らじ“と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、今の南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはち我らが往生の定まりたる証拠なり」とお示しです。

その意味は、阿弥陀様がむかし法蔵菩薩であられた時に、全ての者を仏にすることができなければ我も決して仏とはならないというお誓いを建てられ、永いご修行によってそれを成就され、すでに阿弥陀様と成られて今ここにご一緒下さいます。

そのおすがたこそ、今私たちが称えては聞いている「南無阿弥陀仏」なのです。ですからこれこそが、私たちが必ず仏様としてお浄土に生まれ往く「証拠」なのですと言われたのでした。「証拠」には疑いを除き、物事を決定づける力があります。

【嘉風関の花火】

大分県出身で、嘉風という関取がおられます。出身地である佐伯市には、仕事などで相撲を観戦できずに勝敗が気になるという方が多くおられます。そこで後援会の方々が、嘉風関が勝った時だけ花火を一発打ち上げることにしたのです。

夕刻、嘉風関が勝った知らせが佐伯市の空に響き渡ります。
さてその時、花火の音を聞いた人の心はいかようでしょうか。花火の音を聞くまでは「今日嘉風は勝ったんだろうか」「それとも負けたんだろうか」という二つの定まらない不安な心、いわば疑い心がありました。

ところが、花火の大音を聞いたたちどころにはたった一つ「今日、嘉風は間違いなく勝ったんだな」という心一つに定まります。それは安心であり、疑いが全く無い心です。なぜならそれは「証拠」を聞くからです。それは自ら起こした心ではなく、花火の大音が私の心をして疑いを除き、信じせしめたのでした。

【証拠を聞く】

そうすると、今「南無阿弥陀仏」と称え、それを聞くところにはもう「阿弥陀様は本当におられるのだろうか」「おられないのだろうか」、「お浄土は本当にあるのだろうか」「ないのだろうか」、「お浄土に生まれて往けるのだろうか」「往けないのだろうか」といった二つの定まらない不安な疑い心に用事はありません。

あるのはたった一つ「今ここに阿弥陀様がご一緒下さって、必ずお浄土に生まれて仏様に成らせて頂く」という心一つに定まります。なぜならそれは「証拠」を聞くからです。今聞こえる「南無阿弥陀仏」が私の心をして疑いを除き、信じせしめるのです。

 

【おいわれを聞く】

しかし、ここで大事なことは「花火の音」も「南無阿弥陀仏」もそのおいわれを聞いていない者には通じません。
花火の音は同じでも、そのいわれを聞いていなければ「うるさいなあ」と聞く人もあれば「お祭りでもあるのだろうか」などと聞く人もあります。

同じように「南無阿弥陀仏」は同じでも、そのおいわれを聞いていなければ「呪文」や「おまじない」のように聞く人もあれば、「お葬式の言葉」などと聞く人もあります。

今、名号「南無阿弥陀仏」のおいわれを聞く者にとってその一声とは、いつどこで誰がどのような状態で称えようとも、それは阿弥陀様が仏に成る可能性が全くなかった私たちをはじめから目当てとして「もうあなたを必ず仏とすることができるようになったんだよ」と今ここにご一緒下さるすがたでした。

【賜りたる信心】

私たちは、身も心も決して思い通りにならず、今にもたった独り命を終えていかねばならない不安や心配を抱えて生きています。
そして、誰にも代わってもらえず、時には誰にも分ってもらえない寂しさや悲しみを内に秘めて生きています。

阿弥陀様は、その揺れ動く心の真っ只中に「今の南無阿弥陀仏」と至り届いて「大丈夫、独りじゃないぞ、まかせよ必ず救う」と大きな声でご自身の存在を告げ「我らが往生の定まりたる証拠」となり、ずっと崩れない大きな安心となって入り満ちて下さるのでした。

 

<本願寺出版社『季刊せいてん』NO122/2018年春の号「法話随想」掲載 >

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派