浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

浄土真宗のみ教え

「なぜ葬儀をするのか」

私たちはなぜ葬儀をするのでしょうか。それは私たちが人だからではないでしょうか。人だけが死を悼み、その意味を考えるといいます。葬儀はしなくてはいけないのではなく、本来せずにはおけないものなのです。

 

御本山が東京都の葬儀数社に行った調査によると、葬儀をしない理由は全て①「経済的理由」②「家族に迷惑がかかる」との答えで共通していました。

しかし、私たちはこれまでの人生において、質素であっても誕生日、入学・卒業式、結婚式など様々に催しては、これまでとは違うこれからの自分というものを受け止めてきたのではないでしょうか。そうすると、この理由の背景には「死んだらお終い」という寂しい心があるように思えてなりません。「これから」がない、終わったことに対してお金も時間もかけるのは無駄である、迷惑がかかるといった心はないでしょうか。

 

人は「死んだらお終い」では決して生きていけません。まして、遺された者にとって死は悲しみの始まりであり、これまでと異なった生活の始まりでした。その悲しみを受け止める機会も、言葉もなくして、働いたり、勉強したりは出来ないのです。何もない「お終い」に向かって一生懸命に生きていくのが人生ならば、こんなに虚しいことはありません。

事実、葬儀をしなかった方の多くは、心に大きな穴が開いたまま過ごされるといいます。食べる意味さえわからないと、生きることの意味さえ見失った方もおられます。

 

実はそんな私たちの為に葬儀は遺されてきたのです。そして、葬儀を行えばこそ七日ごとのお参りや、一周忌などのご法事を営むことになります。浄土真宗の先輩方は、その否が応でも続けざまに行われる葬送儀礼一連の流れを通して「あなたはお浄土に仏様として往き生まれた命でありました。死んでお終いの命じゃなかった。必ずまた会える。さよならと別れを告げることはなかったのですね」と合わさる両手に、お念仏の一声に阿弥陀様や先立っていかれた方の命を感じてこられたのでした。

葬儀やご法事を勤めることで、受け止めがたい大切な方の死を少しずつでも受け止めて、深い悲しみの中に普段は考えもしなかった命とは何か、生きるとは何だったかを人は考えてきたのでした。

 

遺産なき 母が唯一のものとして 残しゆく死を 子らは受取れ(歌人・中城ふみ子)

 

<大海組れんそう会機関紙『れんそう会だより』 2016年掲載> 加筆訂正

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派