浄土真宗本願寺派 一乗山 妙蓮寺

お知らせ

2021.09.10

大分県臼杵市の臼杵湾の真ん中に浮かぶ島で、名前は津久見島(臼杵市の隣に津久見市があるが)といいます。

周囲約2.3kmの小さな島で、標高は166mです。

その形状からおにぎり島と呼ぶ人が多いようですが、

地域のご門徒は「お仏飯島」(おぶっぱんじま)と呼ばれています。

おにぎりに見えるか、お仏飯に見えるか・・・

どちらもご飯ですが、それぞれのこれまでのご縁によっての見え方だとすれば、とても有難いことだと思います。

さて、お盆も終わり、はやお彼岸の九月ですが、
お盆期間中は特に、お仏壇のお飾りについてご質問を受けることが多くあります。

なかでも、お仏飯の盛りつけ方を聞かれた際にお答えするのがこの津久見島の形です。

この島をご存知の方には、「お仏飯は津久見島のように・・・」とお伝えするとすぐに合点がいかれます。

浄土真宗本願寺派 蓮莟形(れんがんけい)

真宗大谷派 蓮実形(れんじつけい)

私たち浄土真宗本願寺派(お西)は、蓮莟形(れんがんけい)といわれ、蓮のつぼみのように少し膨らんだ円錐形に盛り付けます。

ちなみに、真宗大谷派(お東)は、蓮実形(れんじつけい)といわれ、蓮の実を表す円筒形に盛り付けます。

お経には、阿弥陀様のお浄土は、色とりどりの蓮が光り輝きながら咲いているといわれ、

念仏者はお浄土に咲く蓮の華の中から生まれるとも説かれています。

ただ、蓮の莟(蕾)の形は様々で、イメージがつかないという方もおられます。

そこで、津久見島をお伝えするのです。

このように、物事を相手に伝える際には、何か喩えるものがあると非常に便利ですね。

分からないことでも、そこにイメージを持つことができます。

仏様の世界も、「不可称」「不可説」「不可思議」といって、本来、私たちには説いたり、理解できるものではありません。

たまに、子どもには理解できない様々な事柄や事情を、「大人の世界」と表現することがありますが、子どもには大人の世界は分からないのと同様です。

しかし、そんな「大人の世界」を不十分ながら表現を用いて子どもに説くことはあります。

以前、子どもから「ビールってどれくらい美味しいの?」と聞かれて困ったことがあります。

まさか飲ませるわけにはいきませんので、とっさに、ビールは「大人のコーラだよ」と答えました。

今さらながら他にもっと適切な喩えがなかったものかと思いますが、子どもは妙に納得していたことを覚えています。

コーラとビールは全く違うものですが、子どもが好きなものに寄せて「大人の世界」を表現したのです。

その時、本来分からない大人の世界の一端を、子どもはイメージとして「それほど美味しいものなのか・・」と不十分ながらも受け取ることができるのです。

同じように、「仏様の世界」が分からない私たちに、
仏様や祖師方は様々な表現やお喩えをもってお示しになられます。

たとえば、お浄土は夕陽の沈む西方にあって美しく清らかで、七宝で光り輝き、花咲き鳥が歌う世界であるとお経に示されています。

また、お浄土は懐かしい故郷のようであり、阿弥陀様は慈愛に満ちた親のようであると祖師方は教えてくださいました。

和歌山県 雑賀岬の夕陽

私たちは、その教説を聞く時、本来分からないはずの「仏様の世界」の一端を、イメージとして受け取るのです。

先の私が子どもに答えたビールとコーラは全く違うものですが、
お経の様々な表現は「仏様の世界」、「真実の世界」をそのままに、形を変え、言葉をもって私たちに届けられているのです。

このような お経などに説かれた仏様の世界を、お仏壇のお仏飯やお華やお灯明などのお飾りの一つひとつは表しているのです。

そんなお仏壇の前に座り、手を合わせて阿弥陀様を仰ぎ見る時、
私たちの心には、生まれ往く世界があり、連れ帰る仏様がご一緒くださることを、
いつの間にか様々なイメージとして受け取ってゆくのでした。

お仏壇を大切にお飾りされ、慶びも悲しみもその前に座って合掌してこられたご先祖を偲び、

西へ西へと夕陽が沈みゆく、お彼岸の季節を迎えたいものです。

浄土真宗本願寺派(西本願寺)-親鸞聖人を宗祖とする本願寺派